無題

これを無為にしたくないという自己満足。

n回目の「人によるんだな」

なんてことはない日記です。

 

今日同僚と昼間から肉を焼きつつ、人生談義をしていた。
というか私が人生相談をしていた。
私も誰彼なしに自分の人生の機微を告白しているわけではないのだが、知人の中には、「話しているとなぜか必ず私の人生の話になる」人がいる。彼女もその一人だった。所謂聞き上手、べらべら話しても面白いって言ってくれる珍しくも有難い方なのだ。
凄く仲が良いかと言われるとそうでもないのも興味深い。

さて、
私の脳内は、相当な非常事態に置かれて無心に作業をしているとき以外は自意識とそこへの考察が自動再生されている癖がある機関なので、それをやめたいんすよねぇって話をしていた。
ああ考えてうまくいかない、でもこう考えちゃってうまくいかないと話して聞いてを繰り返していると、ふと彼女がしみじみ言った。

「自分が大好きなんだねえ」

自己肯定感が低いと自覚しているにも関わらず言われて「いやそんなわけはない」と答えた記憶がある方も少なくない言葉なのではなかろうか。
私もそんな傾向はあったが、最近はまあ、自分のことも結構面白いと思っているので…とはいえ、いざそう言われると自動応答で羞恥心が来た。

「すみません、自分の話ばっかりしちゃって」

気まずさをくるむ緩衝材としてそう言うと、彼女が返してきたのがこちら。

「他人の話ずっとされる方が嫌じゃない?」

へえ、なるほど。と思った。その発想は無かった。
無かったというか、その気持ちめっちゃわかるんやけど、自分に対して応用できてなかった。ネットととか本で「自分の話ばっかりする人無理だよね」って趣旨の記述を見て、自分にその恐れがあることを知っていたのでずっとそれだけが残っていた。これ私やん?になった感覚だけが鮮明に焼き付いている。

しかも私だけか知らないが、「自分が大好き」って日本語にすると良い意味に捉えることができない。そんな刷り込みの中で生きているから可笑しい。普段からLove Myselfは「いいね」となる方なのに。
「Love Myselfキャンペーン」はよくて、「自分大好きキャンペーン」は無理。
何がそうしたか知らないが、自分の感性の限界を感じる。
誰と話してたか何に書いてあったかも忘れたが、外来語のまま定着している言葉って当然日本の内発的なものではないわけで。「自分大好きキャンペーン」をやりたいものだねと思いました。
※凄まじく問い詰めたわけではないので彼女が「自分大好きなんだね」を100%良い意味で言ったのかどうかは知らない。でもまあ、彼女も温厚な人なので友好的な意味だろう。

話跳びまくりですが。

他人の話ばかりされるのがうっとうしい人。
自分の話ばかりされるのがうっとうしい人。

ま、こんなことでも正解は無くて「人による」だなあ。
と妙にすっきりした。私のすっきりはこのように非常にミクロな出来事を根拠としている。

なんで毎回、人によるって自分で思われへんのやろー。